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山の本



ジャンルは山関係のものから、たんに題名に「山」がついているだけのものまで、なんでも取り上げます。
メディアは本に限りません。

2001.8.31から2018.2.14までのデータを載せています。
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『クレタ、神々の山へ』
真保裕一岩波書店)2004年 1600円+税


 本の紹介ではない。いや、本を紹介するために読み始めたわけでもなければ、書き始めたつもりもないというのが事実に近い。

 真保裕一といえば、『ホワイトアウト』。雪深い巨大ダムを舞台に、テロリストとダム運転員の戦いを描いた山岳ミステリーである。織田裕二を主人公にした映画化もあったので知っている人も多いと思う。
 幅広い分野をこなす作家だが、山岳小説としては、ほかに『灰色の北壁』があるくらいだろう。『ホワイトアウト』 があまりにも有名になってしまったので山岳小説家として見られがちだ。
 山にのめりこんでいた時、山と名の付くものならば何でも手にした。小説であろうと映画であろうと、山に関するものであれば、山岳遭難、山岳気象、地図、ロープワーク、トレーニング、登山用具、なんにでも興味を持った。もちろんや『灰色の北壁』や『ホワイトアウト』読んだし、後者は映画まで見た。

 山には行けなくなったのに、書籍関係(特に小説)ではその傾向が抜けきれない。左脚の骨折が未だ完治せず、時間を持て余して出かけた図書館でこの本を見つけたとき、この作家の新たな山岳小説と勘違いして手に取ってしまったのだ。ところが小説ではなく、ギリシャのクレタ島をめぐる山岳紀行文であった。
 後悔半分で読み進めたが、そんな思いは一瞬だった。山歩きをする実体験と、虚構の世界を作り上げる作家生活とのギャップを意識して語り始める文章に、いつの間にか惹かれてしまった。
 クレタの歴史、民俗、風土、動植物などあらゆることに視線を巡らせ、作家ならではの想像力と表現力で繰り広げられる世界は、読む者を飽きさせることはない。もちろん、ぼくにとって好きな「山岳小説家」(他の分野の小説も好みだが、)が書いたものだからというおまけを差っ引いたとしても、それほど極端な評価にはなっていないはずだ。所々に挿入されたカットのような写真もいいアクセントになっている。

 小説家にもよるだろうが、作家というものは得てして運動(この場合は「社会運動」ではなく身体的な「運動」、と断るまでもないか?)とは無縁な人が多いようだ。少なくとも真保氏はそうであるらしい。だからか、それにも拘らずか、クレタの山に出かけてきたのは「山岳小説家」として有名になったことと無縁ではないようだ。
 著作の中でも述べているが、山岳小説をものにする作家は、山の経験が豊富であろうと読者から勝手に想像されやすい。あわせて頑丈な体つき、ストイックな性格と勝手なイメージを貼り付けられがちだ。こんなにも山のことを知っているのだから、山登りをする人の心理に通じているのだから、作家自身が登山に精通しているというふうに思われてしまうのは、ある意味仕方のないことだともいえる。
 もちろん数ある山岳小説家の中には、実際に現地に足を運んでイメージを膨らます人もいるだろう。しかし自分の知りうる限り、実体験に基づいて作品を作り上げる作家というものは例外的といっていい。全くといっていいほど未体験であっても、膨大な資料と取材(このなかには現地に行くことも含まれるが、聞き取りといった間接的なものが主流)や検証(これも作者が追体験をするというより、体験者による追認証がメイン)によって一つ一つの言葉に力を持たせ、架空の世界を築き上げる。
 アウトドアの世界を描き出す作家も、その作業は必然的にインドアの作業になる。少なくとも真保裕一氏はこのタイプの作者らしい。したがって不規則な生活パターン、運動不足の身体、偏りがちの栄養摂取によってますますアウトドア派からはかけ離れた存在になりがちだ。しかし、今回の取材旅行での規則正しい生活、適度(以上の)運動は、真保氏にとって(一時的にではあるが)健康面・生活面での良い効果があったようだ。げんに「おわりに」では次のように記している。

「 それにしても、膵臓を悪くして以来、あれほど毎日たらふく肉を食べたことはなかっただろう。なのに、日本に帰り着いてみると、体重が二キロ減っていた。
 ダイエットには歩くのが一番いいと言うが、確かにその通りだったようだ。余分な脂肪が削られ、自分のベスト体重へ近づいたのだろう。そのせいか、帰国後はゴルフの調子もよくなっていた。」

 さて、ここからは自分のこととなるのだが、交通事故で左脚を骨折し、2か月以上全く運動しない、というよりはほとんど動かない生活を送っていた。気晴らしは、パソコンやインターネットに関わるあれこれと、メディア鑑賞と読書。動かないのだから余分に食べないほうが良いとは自覚していたつもりだが、食べることも一つの楽しみとなり、規制は外れがちだった。
 シーネ(副木)も取れ、松葉づえなしでも歩けるようになった2か月後、よそのお宅を訪問することになった。いつもは脱着の楽なジャージを使用していたが、この日は普通のズボン(今風に言うと「パンツ」か?)に履き替えてみた。ところがである。どのズボンもウエストのボタンがはまらない。腹を思いきりへこましてみるのだが、それでも手前5センチほどがどうしても届かない。あせった。
 比較的緩めだったズボンを探し出し、何とか前のボタンをはめ、腹をへこましてチャックを引き上げる。帰宅後、入浴時に体重を図ってみた。驚いた。68キロ近くある。いつもは64キロほどだから、4キロオーバーだ。腹の周りに肉がついていることは自覚していたが、これほどの体重増加とは思ってもいなかった。
 これはまずい。何とかしなければと思ったが、できることは限られている。まだ脚は完治していない。浮腫みもある。何よりもすぐに息が切れる。それが足の浮腫みから来ているものか、もともとの心不全状態が進行したものかは判然としないが、運動しようにもできないことに変わりはない。実際、歩くことは自分にとって苦痛ともなっている。とすれば、取り込む量を減らすしかない。
 行き過ぎた体重の増加は心臓にとってもいいことはない。反対に言えば、体を軽くすることは心臓にもいいはずだ。積極的な運動はできないが、なるべく体を動かすことにしようと決意を固めた。しかし、実行することは容易いことではない。

 交通事故という「奇禍」で体調の悪化が進んだ。反面、『クレタ、神々の島へ』と出会ったことを「奇貨」として、体調の改善に取り組もうと、しゃれっ気を出して考えた。
(2018.2.14)



『果てしなき山稜』
志水哲也 著(山と渓谷社文庫) 950円+税


 「襟裳岬から宗谷岬へ」という副題がついたこの本は、1995年に白山書房から出版された同名の書籍の文庫版である。
 じつはこの文庫を手にするまで、なんだか以前に読んだ気がしていた。開いてみてやはりそうだと思い至ったが、それでもあえて読み始めた。それは、繊細でナイーブな筆者の山歩きの心情に再び触れたかったことが理由のひとつ。今は山歩きもほとんどかなわなくなったが、(スケールこそはるかに及ばないものの)かつての自分の姿をそこから少しでも偲びたかったことが、個人的なもうひとつの理由だ。
 志水哲也といえば、「地域研究」として黒部の山里に移り住み、そこを拠点にしてすべての谷を歩きつくし記録にまとめたことで知られている。ほかにも冬季南アルプス全山縦走・同知床半島全山縦走なども知られている。これらのことは志水哲也
『生きるために登ってきた』(みすず書房  ※本ページ11.7.30参照)に詳しく記されている。
 このような著者の実績を並べると、執拗で集中力がある、信念を持ったクライマーのイメージ浮かぶが、むしろ正反対の側面を持つ人物だ。常に迷い、悔やみつつ、それでも前進を重ねる、きわめて人間臭い人物だ。それは当時28歳という年齢からくるものかもしれない。結婚したばかりということも、仕事を辞め、山に没頭する日々に転身した直後だったということもあったかもしれない。それでも山に向かう心情を抑えきれず、山に入る。山に入っても悩む。
 「自分の信ずる道を行こうと思いつつ、やはり、周りの言うことが気になってしまう。そして、不安になる。だいたいぼくは他人の言うことを気にしすぎる。自分に自信がないから、『ああしたら』『こうしたら』という声に振り回されてしまうことが多いのだ。」(A猿留川林道〜楽古岳P47)
 志水氏の登山の形は独特だ。単独行であるもデポはしない。もちろん別動隊による支援も受けない。地域に拠点を設け、そこから山に出撃する。黒部の場合は宇名月に拠点にしたが、長距離縦走の場合はそうはいかない。襟裳・新得・旭川と、次々北に拠点を移していく。食料や装備が尽きたら里に下り、天候や体調をにらみ、再び山に入るということを繰り返す。長大な山脈を何本もの糸で縫うようにしてつないでいく。
 「山に来て里を思い、里に居て山を思う」、里と山の行き来による独特の迷いや悩みもつきない。もちろん厳しい場面では、集中して自然と格闘する。風雪に吹き飛ばされそうになったり、雪庇踏み抜きの恐怖と戦いながら前進する。頭の中では、剣岳での雪庇の踏み抜きによる滑落の記憶が渦巻いている。

 きわめて人間臭い志水氏の登山の記録。それは、登山スタイルがそうであるからかもしれないが、根本的には表現スタイルとしてのそれだろう。誰でもが感じる迷いや悩み、後悔や恐怖という人間的な感情を素直に文章化している。ぼくはそのことに共感を覚えるのだ。
 山岳写真家として、また山岳ガイドとして確固とした地位を得ている著者の今はわからない。また興味もあるが、人間なんてそう簡単には変わらないことを思えば、半ば想像もつく。
(16.12.29)



『山女日記』             『八月の六日間』
湊かなえ幻冬舎 1,400円+税
          北村薫(角川書店) 1,500円+税


異色の作家2人が書く「山岳小説」
 本を買うことが少なくなった。読む量が減ったからというのもあるかもしれないが、なんと言っても図書館で本を借りるという習慣が身に着いたからだろう。本代の節約にもなるが、本棚があふれないのがいい。先の長い身ではない。余計な荷物は増やしたくない。
 困ったこともある。こうして本について書こうとする時だ。ちょっとページをめくって内容を確かめるということができない。正確に書こうとするとなおさらだ。だからと言って記憶力に頼ることは出来ない。もともと物覚えのいい方ではないが、年齢に応じてさらにひどくなっている。
 書いて発表する責任はあるが、お金をもらって書いているわけではない。ままよ、気の向くまま、うろ覚えを頼りに書き連ねることにしよう。

 もともと山と名が付けば興味をそそられる方だった。映画も本も山関係のものにとびついた。高村薫の『マークスの山』や新保裕一の『ホワイトアウト』は本を読んでから映画も見た。最近では笹本良平の『春を背負って』がある。誰でもそうかもしれないが、小説のイメージの方が強すぎて、映画で見ると色あせて見える。
体調がすぐれず、山に行けなくなってからは、より一層その傾向が強まった。行けないと思うとますますその思いが強まるのか。それとも代償行為なのだろうか。
 映画化は予定されていないが、上記2冊も気に入っていて、図書館でリクエストして読んでみた。

 湊かなえさんは『告白』でデビューした作家だ。心理サスペンス(こんなジャンルがあるのかどうかわからないが)を得意とするようである。これまでにも『贖罪』『白雪姫殺人事件』『高校入試』などの作品を手掛けている。一人称で語られるストーリー展開で、主人公の心理に一体化して読み進む仕掛けになっている(「仕掛け」は大げさか?)
 一方の北村薫さんは、小説の主人公が女性であることもあって、また名前からもそのように見られがちだが、実は男性である。今でこそ素性は明らかになっているが、かつては男か女かがわからず、一時期はその正体をめぐって覆面作家とよばれていたこともある。
 北村さんの作品も女性の一人称で書き進められている。しかし、湊さんの作品と異なるのは、日常生活におけるたわいないミステリーを扱っていることだ。とくに初期の作品にその傾向が強い。『スキップ』『ターン』『リセット』などの作品はテレビドラマや映画化されたりしているものもあるので、知っている人は多いだろう。
 この二人の作家の山岳小説は今まで聞いたことはなかった。そもそも山関係の小説とは縁遠い方だと思っていた。ところが相次いで出たのが上記2冊(個人的に言えば湊さんの方を先に知った)。題名からして山関係であることは明らか。というか、『山女日記』は読んでみるまで山関係の内容かどうかわからないぞと思い、『八月の六日間』は表紙のデザインから山関係だろうと想像していた。

 『山女日記』は、複数の女性たちが、それぞれの異なる山行を通じて、その思いと生き方を描いた作品である。ひとつひとつが独立したストーリー展開を持ち、全体で一つの小説となっている。
 同僚との確執、結婚、見合い、不倫、離婚、恋人への思いと別れ。さまざまな関係性を抱えて山に登る女性たち。山中の主人公の回想という形でその背景が語られる。山行形態は、単独行、家族・兄弟の登山、同僚や恋人との登山、ツアーありと多様だ。出かける山は妙高山・火打山・槍ヶ岳・利尻山・白馬岳・金時山。日本の山ばかりでなくニュージーランドのトンガリロまである。
 それぞれのストーリーはどこかで関連性があったり、まったく別の物語であったりする。また、あるストーリーの主人公が、別の物語で背景人物としても登場することもある。ひとつひとつの物語が、交錯したり並行したりしながらストーリーは展開していく。山は人生の答えは与えてくれない。それでも人生の転機にはなっている。
 湊さんの小説にしては、珍しくミステリーでもなくサスペンスでもないのが新鮮だった。

 いっぽうの『八月の六日間』の山は、槍ヶ岳・磐梯山周辺・常念岳・高見石・三俣蓮華岳あたり。「あたり」というのはその周辺の散策、または縦走をしているからだ。山行そのものよりも、そこに至るまでの日常生活から説きおこされており、山中のストーリーに深みをあたえている。このへんの描き方は北村さんの得意とするところだ。
 主人公は41歳の女性編集者。同僚に誘われた滝子山で山にはまる。団体行動が苦手なので、山行形態はおのずと単独行になる(磐梯山周辺のツアーのみ例外)。それでもというか、それゆえにといおうかうか、山中での邂逅は多様だ。宿の温泉での会話、心に残るすれ違い、声がけだけの関わり、山での(、そして町での)再会、お節介な人への反発、自分が余計なお節介をしてしまっての後悔。山小屋での交流。その場にいないひとと思い出が主人公の心をよぎることもある。同居者だった男性との断ち切れぬ気持ち、高校生だった頃の主人公が抑えきれなかった反発、亡くなってしまった幼なじみへの思い。さまざまな思いを重ねながら山に臨む。
 作品は、「9月の6日間」「2月の3日間」というようにひとつひとつの登山行程での出来事がそれぞれに完結しているが、全体を通して一つの作品となっている。
 槍ヶ岳で危うく(プチ)遭難しそこなった主人公は、装備や飲食物選び(山中での行動にも)、慎重だ。編集者らしく、途中で読む本の準備も怠らない。そのあたりは具体的に、事細かく書かれている。特に書名や、その本にまつわる主人公の思いなどは参考になる。主人公は山行前夜、なかなか寝付けないことが多い。仕事がなかなか片付かないこともあるが、本選びや物思いにふけることでつい寝不足になってしまう。このあたりの事情も良くわかる。
 山に行く前の準備についても事細かに描かれているばかりでなく、登山時間もまめに書かれている。作者が事前調査し、自らも当該の山に出かけたことがうかがわれる(湊さんもその辺の事情は同様だ)。あとがきには、「作中で描かれている登山時間や必要な道具類などはあくまでも『主人公の場合』であり、季節や天候、コース状況、各人の体調や経験などによって大きく異なります。」云々とあり、実際の登山における注意事項にも配慮がある。といっても、もちろん登山ガイドとして読むべき本ではない。

 作風の異なる作家の2つの作品だが、女性が主人公であるということ、山域別に構成された短編をひとつの作品に仕上げてあるということなど、似ている点が多い。両作品で、山域が偶然重なった槍ヶ岳(ルートは違うが)では、『山女日記』の主人公も珍しく単独行だったということも同じだ。最後の短編では、別れた恋人との真の訣別に至るのではないかと思わせる展開になっている点も一致している。これまでに「山岳小説」を書いたことのない二人の作家が、たまたま同じ時期に山を舞台にする小説を著したという点も面白い。さらに言うならば、どちらも本格的な「山岳小説」とまでは言えない作品であるということも興味深い一致ではある。
(15.1.18)



『オオカミの護符』
小倉美恵子(新潮社) 1,500円+税


 武蔵国御嶽山神社のお札、それは私の家にも貼ってあったし、母の実家にもあったような気がする。御嶽神社の講に入っていたのか、ご近所や親戚の誰かから土産としていただいたものだったのかは定かではない。
 そこには「武蔵国 大口真神 御嶽山」という三行の墨字と、「御嶽神社」という赤い押印が重ねられている。その下にはオオカミのような黒い狛犬(?)が半ば口を開いて左向きで腰を下ろしている。
 このお札が表紙に印刷された本をたまたま書店で見かけ、興味をひかれ手に取ることになった。

 『オオカミの護符』は2008年に公開された同名の映画をもとに、その後活字化された著作である。映画は監督が由井英。プロデューサーとしてこの本の著者小倉美惠子が関わっているが、小倉は実質的な主宰者と言ってよい。
 著者の実家(川崎市土橋)の土蔵に貼られたお札から始まるこの「物語」は、郷土の「土橋御嶽講」への関心から始まり、多摩川をさかのぼるように御嶽神社にたどり着き、山岳信仰とその古式を記録し、山村の暮らしとオオカミとの関わりに思いをはせる。さらに著者の興味は山伝いに秩父の山に至り、宝登山・三峰山の各神社、かの地の人々の暮らしやしきたりの記録と、とどまることなく広がっていく。
 こう書くと、いかにも民俗学的な内容の本と思われがちだが(事実そういう面も持っているが)、あくまでもオオカミの護符をめぐる著者の動機を基軸に、オオカミ信仰の探求と山村の暮らしへの共感がベースになっている。いわゆる学術的な書ではない。

 奥多摩・奥秩父方面を歩いていると、オオカミが付いた地名に出くわすことがある。
 思いつくところでは、狼住所(オオカミズンド)・狼平(雲取山西方・大菩薩南方)などだが、かつて奥多摩・秩父・甲斐地方にオオカミが生息していたのではないかと思わせるものだ。
 オオカミを偲ばせるのは、御嶽神社の護符に描かれている姿や三峰神社の狛犬山の姿ばかりではない。山を歩いていて小さな祠に出くわすことは多い。そこに鎮座している狛犬はオオカミではないかと見まごうものが多い(「山のアルバムBN5 10.4.21」など参照)。
 狛犬が親子のオオカミであるものも見かけたことがある(定かな記憶ではないが、サルギ尾根の祠だったかもしれない)。これなどは「オオカミの産見舞い」(本書P167〜168「心直なる者」)を連想させる。
 興味深いのは「オオカミ信仰」ばかりでなく、「山岳信仰」との関わりの場面だ。(P95〜97「山とオオカミ」)
 御岳山の西にある三角錐の端正な形をした奥ノ院、ここは男具那(オグナ)ノ峰と呼ばれている。
 富士山に限らず、左右対称(シンメトリー)な山に対する人々の畏敬の念は多い。御嶽山神社の金井宮司による次の言葉は暗示的だ。「御岳山は、本来の信仰の対象である『男具那ノ峰』を拝むための遥拝所ではなかったか」
 さらに言えば、「男具那」と護符の「大口真神」の読み方の類似性は何を意味するのだろうか。

 和名倉山は今でこそツアー登山さえ実施されるほどのところになったが、かつては山慣れた者でしか入り込めないところだった。
興味深いのは、その地がさらに昔は三峰耕地の農民の「前山」であり、焼畑を行っていた耕地であったということである。(「守護不入の地」P172〜173)。
 和名倉山にある「仁田小屋の頭」ばかりでなく、「○○小屋の頭」というのは、山小屋というよりは近在の部落の農民が農作業の拠点とした作業小屋と考えると納得がいく。

 本書は、著者の心に落とされたオオカミの護符を中心とする波紋が、里から山に向かって広がっていく過程であるともいえる。反面、この本をきっかけに山域から里の生活を眺めてみると、それまでとは違った風景が見えてくるという楽しみもある。
 機会があれば、同名の映画もぜひ見てみたいものだと思った。
(12.5.18)




『生きるために登ってきた』
志水哲也(みすず書房) 2,500円+税


 多くの登山家の書がそうであるように、この本も自らの生い立ち・山との出会いから語られている。そして、多くの先鋭的な登山家がそうであるように、厳しく自己を律することを己に求めている。
 著者は各章の終わりや合間に楷書体で自分の思いを短くつづる。全体的には同感できる内容が多いが、第六章の終わりにある次のような記述を読んだとき、強い違和感を覚えた。

 「先鋭な登山でもガイド登山でもレジャーでも、仕方がなかった遭難と、絶対にしてはいけない遭難があり、その違いは天地ほどもある。トレーニングを重ね、十分に研究し、それでも起こりうる偶然の事故を冷静に分析し、死をも甘受する気がまえで困難なルートに立ち向かった死と、トレーニングや研究も十分せぬまま、なかば観光のような気分で山に入って起こした事故がひとくくりで扱われるのを見ると、息が詰まる。『死んだら一緒』というわけでは絶対にない。」(「僕の青春、どこにある」)

 このように確信をもって言う著者は、続く章ではサイズの合わない登山靴で、しかも膝の不具合を抱えたま雪の南アルプスに入山するのである。しかしその反感をこらえて読んでいくうちに、著者の実像や心の揺れが見えてくると、受け止め方も変わってくる。
 少しばかり著者=「僕」の歩みを見てみたい。
 高校生の時、「歩き通せば何かがあると信じ」(「最初の目標」)南アルプスや北アルプス全山縦走を成功させる。しかし、やがてそれにも疑問を持ち、「雪のない時期の登山道歩き、いわゆる『フツーの登山』をやめた」(同)「僕」は、沢登りや冬山縦走に取り組むようになる。
 高校3年の冬南アルプスの南部縦走に挑戦するも2日で挫折。そんな自分に対して「何もできない、いい加減で、ウソつきで、逃げてばかり」(「山、何のために」)と感じてしまう。
 「死にそうな家族を無視して、わがままを通してきたのだから、僕には人生の負債がある」(「どん底のスタート」)と思い込んだ「僕」は岩登りに活路を見出し、「死んでも登る」と思いつめる。(同)
 さらに大井川全支流の沢登りを計画する。試行錯誤し、体験的に技術や知識を得る中でそれを成し遂げ、次に黒部川の沢の地域研究(沢登りの記録を取ることか?)に挑戦する。苦労を重ねたすえこれも実現させてしまうと、次の目標が見えてこず空虚な時が待っていた。

 「夢や希望を持たないで生きていると、それに慣れてしまうから恐ろしい。つねに目標をもち、夢や希望を追っていると、それにも慣れ、それを持たないで生きていくことが耐えがたく思えるようになる。それはたしかにある種の麻薬のようなものであるのかもしれない。」(「黒部川の沢の地域研究」)
 「目標を達成してしまったときの喪失感」(「僕の青春、どこにある」)の中で恋をし、失恋した「僕」は、ヨーロッパアルプスの岩登りに目標を見出す。「過去のことを懐かしむのはいいが、現在や未来に夢や希望がないのでは、寂しすぎる。(中略)目標を持てば、ハードルをつぎつぎ高くしていかなければならない。」(同)という思いから。
 山に対する後ろめたさのような思いを持っていた「僕」は、ヨーロッパアルプスで目の覚めるような人たちとの出会う。
 「山を取ったら何も残らない、“山やくざ”のような人間たち。しかし、彼らの目は、どう見ても社会から逃げた負け犬には思えない、人生に賭けるものをもつ“男の目”をしていた。」(同)

 ヨーロッパアルプスで息を吹き返した「僕」は、冬の南アルプス縦走、知床半島全山縦走……結婚をはさんで北海道冬季縦走(厳冬の日高山脈、早春の十勝・大雪連峰、残雪の天塩山地・北見山地)を実現させる。
 長男の誕生を境に山岳ガイドを始めた「僕」には、山に向かう姿勢にも少しずつ変化が現れる。「今での自分の登山には、目標を達成することによる充実や、意味のあることをしなければならないという自縛があったが、ガイドの仕事をしているとその自縛から解き放たれ、景色を見ても素直に感動している自分がいた。」(「最初の著書、そして黒部へ」)
 そして、完結したように思えていた黒部の谷に戻るべく、家族で宇奈月町に引っ越すことになる。
 しかし夢(挑戦する心)を捨てきれない「僕」は、南米のエンジェルホォールや剱沢大滝の単独登攀に挑戦するが、前者は現地政府の許可が下りず中止、後者には二度にわたり失敗する。「まだ体力、技術はさして落ちていない。『死んでも登る』といった気負いや挑戦心が以前よりいっそう必要なのに、逆にそれが弱くなってしまったと感じた。」(「写真家宣言」)それを機に写真家としてのデビューを意識するようになる。
 写真家としてデビューした「僕」はその位置に安寧を求めたのだろうか。そうではないことがその後の記述からもみてとれる。
 剱沢大滝の撮影の時、撮影地点の今にも崩れそうな雪渓(スノーブリッジ)の上で「僕」は思う。
 「崩れれば死ぬ。それでも撮る。かならず撮る。ふと、『死んでも登る』が二十歳のころの僕の口癖だったことを思い出す。」(同)

 しかしまたしても、写真家としての限界を感じるときが訪れる。
 「写真の世界に夢を持ち、日本の頂点、世界をめざし、このままのペースで進んでいくつもりだった。しかし、七年間全力で突っ走ってみて、写真家としての自分に限界を感じている。」(「白神に通って」)
 そして「僕」は再び黒部に帰っていく。黒部の谷から流れ出た水が海にそそぎ、雲となって黒部の山々に雨として降り注ぐように。
 「これを機に地元の黒部を本格的に撮りなおすつもりだ。手はじめに黒部川をめぐる山の代表格の剣岳を、『岩』と『雪』をテーマに三年ぐらいかけて撮影したい。」(同)

 先鋭な山登りをする人々の多くが、谷や岩や雪で命を落としていく。著者がそうならなかったのはたんに運が良かったからだけではないだろう。
 夢(挑戦する心)と現実の生活の間で揺れ動き、自分の弱さを呪い、矛盾や醜悪さを感じつつも歩み続ける。変わっていくことを拒絶しつつも、いつしか変化を受け入れ、それでも夢をあきらめない。そんな矛盾を受容して山に向かって行ったことが幸運を呼んだとは考えられないだろうか。
 人とは内的矛盾を生き抜くことだとは誰が言ったのだったか。著者の生き方や考え方はその意味でまさに人間的ではある。
 著者が自己について語る次のような言葉を肯定も否定もなくただ受け入れたい。

 「不器用をよそおっているが、とても要領がいい男を知っている。この男は努力することが嫌いで、うまく成果をあげることばかり考えている。しかし、彼は器用な人間が嫌いだという。自分が不器用であるとかたくなに信じているらしい。だから、他者のみならず、自らに対しても欺瞞を続ける。彼はひたむきな人間に憧れてはいるものの、実は成果ばかりを求めていた。長期縦走、単独登攀……彼が行った主たる登山は、そんな自分への反発のはずだった。しかし、それもまた成果……だとしたら。僕は僕よりも器用な人間をほかに知らない。」(「最初の著書、そして黒部へ」)
(11.7.30)



『単独行者(アラインゲンガー)新・加藤文太郎伝』
谷甲州(山と渓谷社) 2,625円


 新田次郎著『孤高の人』(新潮文庫)は、山に興味を持ち始めた頃に読んだ。かなり昔のことで内容について詳しくは覚えていないが、強く惹かれた記憶がある。誰もがそうであるように加藤文太郎の気持ちや考え方に自分を重ね合わせ、同情と共感を持った。気の弱いところ、人付き合いの苦手なところ、きまじめに、また不器用に山行を重ねていったところ等々。自分を引き合いに出すのは恐れおおいとは思うが、加藤文太郎に惹かれる要因は似たような心情が自分の中にもあったからかもしれない。
 それ以降、加藤文太郎は孤高の登山家として自分の記憶の中に刻み込まれた。そして、それはこの本を読んだ多くの読者にとっても同様であったろう。

 先ごろ、加藤文太郎著『新編・単独行』(山と渓谷社)を開くことになった。この本を手にしたきっかけは、谷甲州著『単独行者(アラインゲンガー)新・加藤文太郎伝』(山と渓谷社)を読み、そのあとがきを見たことからだった。著者は加藤文太郎をモデルにした小説『白き嶺の男』(集英社)をすでに上梓しているとある。ちなみに、この作品は1996年に新田次郎文学賞を受賞している。この小説にも目を通したくなった。それならば、初めに加藤文太郎の『単独行』を読んでおくのも悪くはないと考えた。『単独行者』との比較・対照もできる。なによりも、自分自身が加藤文太郎像に興味があった。

 『白き嶺の男』における主人公のパーソナリティーは加藤文太郎を骨格として作り上げたものだが、設定はほとんど別なものになっている。時代は加藤文太郎の活躍した昭和初期ではないし、舞台も日本に限らない。主人公の名前も加藤文太郎ではない(名字は同じだが)。『白き嶺の男』は、それだけにフィクション性がより強い作品になっている。
 いっぽう『単独行者』は小説という形をとりながらも加藤文太郎の足跡を忠実に辿っている。新田次郎の『孤高の人』との比較は簡単にはできないが、史実により近くなっている作品のように思われる。少なくとも『白き嶺の男』との位置関係は歴然としている。

 では、加藤文太郎像についてはどうなのだろうか。
 谷甲州が近著の『単独行者』でも述べているように、また『白き嶺の男』のあとがきでも述べているように、著者は後者の作品では加藤文太郎像に迫り得てはいないと感じており、再構成したものが前者の『単独行者』として結実したということのようだ。
 ただし加藤文太郎像と言うとき、新田次郎の『孤高の人』におけるそれがあまりにも印象が強すぎて(たとえ加藤文太郎の『単独行』を読んだとしても)、その影響は免れがたい。谷甲州も例外ではなかったようだ。もちろん『孤高の人』の加藤文太郎像も虚像であることに変わりはない。

 結論から言えば、小説の主人公がいかに実像に迫っているかということにはあまり意味はないように思う。小説を読んで読者は主人公の実像に迫ったつもりになっているが、どんなに史実に忠実であろうと主人公は虚構の中の虚像でしかない。
 それを前提に考えれば、3つの作品の中の虚像としての加藤文太郎像は次のようになるだろう。
 『白き嶺の男』<『単独行者』<『孤高の人』
 『白き嶺の男』は、実像としての加藤文太郎からは遠く離れ(もちろん、そのことが作品としての価値を下げるものではない。)、『単独行者』はより史実に近づいたが、作品としての加藤文太郎像はより『孤高の人』に近づいたのではないだろうか。
 加藤文太郎をあつかった作品としては『孤高の人』が初作であり秀作であるが故に、読む者がその磁場から自由になりきれないのと同程度に、再構成された作品が引きずられてしまうのも仕方ないことなのかも知れない。
(10.11.28)



7サミット 極限への挑戦
栗城史多 2010.1.4
NHK総合放映


 お正月三ヶ日は、特に予定のない限り駅伝を見るのを楽しみにしている。まして入院中の身とあっては、これに勝る楽しみはない。
 三ヶ日が明け、駅伝も終わった4日、左題名のドキュメントがあった。

 番組紹介(宣伝?)では、「もとニートの登山家」「登山を始めて2年目で7サミット(7大陸の最高峰を指す)に挑む」「ビデオカメラを携えて登り、自分の登山のようすをネットで世界に配信」等々のキャッチフレーズが躍っていた。
 登山2年で7サミット!? ビデオカメラで自分の姿を撮る、しかもネットで世界配信!? ……山をなめてンじゃあないの。もしかしたら売名行為? 第一印象は最悪だった。でも、どこかに羨ましいというような気持ちもあったように思う。
 複雑な気持ちを抱いたまま、当日番組を見る。それは壮絶だった。何が壮絶か?
 生きる意味を持てない人生。あてのない未来。そのような中で出会った登山という熱く燃えるもの。
 登山の更なる高みを目指す栗城にとって、それは自ずと7サミットとなったのだろう。命をかけるギリギリの挑戦がそのような形として結実したのだろうと思う。
 「細胞のひとつひとつが目覚めている。」(栗城談。引用は正確ではないが、大意は変わらないと思う。)ためには、7サミットが必要だったのだろうと容易に想像できる。
 もちろん、単独・無酸素登頂、山頂からのスキー滑降も偉業には違いない。しかし空虚な人生からの飛躍、果てのない虚無からの脱出として、命を燃やすことで生きる意味を見いだしていくプロセスには感動を覚えた。
 その意味で言えば、単独・無酸素登頂、山頂からのスキー滑降も単なる手段に過ぎない。
 さらにその意味で語れば、、「人に感動してもらう冒険を行い、一歩踏み出す 勇気を与える」(栗城オフィシャルサイトより)などは付け足しに過ぎない。「冒険の共有」(前記同)などはおこがましい。

 余談だが、この程度の登山歴で7サミットを達成できる(正確にはエベレストは現時点で未達成)のならば、自分もセブンサミットのひとつキリマンジャロぐらいには挑戦できるのではないかと愚かにも考えてしまった。
(10.1.11)



『日本の山と高山植物』
小泉武栄平凡社新書) 760円


 奥多摩の山を歩いていてふと思うことがある。山頂を境に東西の斜面を比較すると、東側比べて西側のほうが急傾斜になっているような気がする。もちろん全ての山ではない。しかし石尾根だけみても、鷹巣山・七ツ石山・雲取山などがこれにあたる。もちろん例外もある。カラ沢の頭などは南東の方が急だ。
 もう少し範囲を広げてみよう。八ヶ岳もそうではないか。赤岳・阿弥陀岳を中心に東に比べて西側の方が急峻だ。こう思ってみると、同じような傾向を持った山が次々に浮かんでくる(もしかしたら富士山も……)。

 奥秩父の山を歩いていると、コメツガやシラビソなどの針葉樹の林の中に、突然大人の半身以上もある岩がゴロゴロししている地帯に出くわすことがあるる。岩はぶ厚いコケに覆われている。もう何千年も昔から前からそこにあったかのようだ。
それほど広い範囲ではない。さらに歩き続けるとすぐに岩は見えなくなってしまう。なんであんなに狭い範囲だけに岩がゴロゴロしているのか。

 これらの疑問に答えてくれるかもしれないのがこの本だ。

 筆者は、ジオエコツアーというものを行っている東京学芸大学の教授である。
 「ジオエコ」とは地形・地質・土壌・水という「ジオ」と、動植物などの生態学を指す「エコ」を統合したものであるらしい。つまり、動植物と地形・地質を一緒に観察し、両者の関係を考える山歩きのことだ。

 本書は、日本の山の特徴についてから始まる。
 日本の山は世界でもまれな特徴を持っている。スケールこそ小振りだが、景観の多様性・冬山の厳しさ・多彩な高山植物群。筆者はこれらの特徴について、気象、植物学・地質学から解き明かそうとしている。また、高山植物はどこからやってきて、どのようにして現在のような分布になったか、そして、高山植物がなぜ大切なのかを既知の事実をもとに解説している。

 日本には「アルプス」と名付けられた山脈が3つある。北・中央・南アルプスだ。ヨーロッパアルプスちなんで飛騨山脈・木曽山脈・赤石山脈に命名されたものだ。この命名には、まずアルプスがありきという発想がある。
 日本アルプスはいずれも本場のアルプスに比べればはるかに小規模だが、植生から言えば日本の高山の方が正統だと筆者は言う。ハイマツ帯の分布からそのように判断するのだが、筆者の「私はそろそろヨーロッパアルプスの呪縛から抜け出すべきときがきているのではないかと考える。」(「第四章「ヨーロッパアルプスにはなぜハイマツ帯がないのか」P77)という主張にはいろいろな意味で頷けた。

 話はさらに地質と地形、地質と植物を絡めながらすすんでいく。
ここでは、筆者が地質と植物の関係について研究し始めたきっかけが語られている。それは、地形調査の手伝いをした時だったという。植物の分布と地質との関わりに気づいた筆者の見方は、まさに登山者の視点であった。「登山者がみる山の景色は、地形や植生を含めた全体的なものである。」(第五章「高山の地質・地形と植物群落」P99)しかし、それは誰もやっていない学問分野だったのだ。
 全てが発見の連続で、おもしろさに目覚めた筆者の研究は次から次へと広がっていった。日本の山に止まらず世界の山をも調査し、博士論文を仕上げることとなる。そしてその成果は『日本の山はなぜ美しい』という本に結実する。

 第六章では日本の森林限界が低い理由について、岩塊斜面との関係で解説されている。ここには、ホシガラスとハイマツの共存関係が語られている。高山で出会うことの多いホシガラスだが、これからは少し違った見方が出来るだろう。

 第7章以降では地質の成り立ちがプレートテクトニクスとの関係で語られ、さらに山の成り立ち、氷河、火山と話は続いていく。詳しくは読んで頂くとして、ここではプレートテクトニクスについて少しだけ触れておきたい。
 プレートテクトニクスとは地球の表面を覆う十数枚の巨大な岩盤のようなもので、「それらが相互の動くことによって大陸が移動し、山脈や火山や海溝ができ、地震が起こるという壮大な学説」(第七章「地質の成り立ちとプレートテクトニクス」P138)である。 はじめに述べた私の疑問に答えてくれるかもしれないのが、「プレートテクトニクス」だ。ただし、統計的に「西側急斜面説」が裏付けられればの話だが……。

 奥多摩の三頭山に登るとき、私はよく三頭沢を登りのルートに使う。もちろん沢登りではなく、れっきとした登山道だ。ここは沢ルートのわりには開けていて、明るくて気持ちのよい登山道だからだ。
 第十一章「特異な植生分布」では、その三頭沢のことについて書かれている。1991年8月に三頭山で数百年に一度という豪雨があり、沢沿いに生えていた樹木が根こそぎ流されてしまった。そのことが植生の更新として肯定的に語られている。国の推し進める人工の堤防や、河床の「床締め工事」に筆者は批判的だ。
 自然による植生の更新多いによし。三頭沢の明るい風景の中をまた歩きたくなってきた。
(09.12.8)



『サバイバル登山家』
服部文祥(みすず書房) 2,420円


 「サバイバル」という言葉をひくと「異常な事態の下で、生き延びること。また、そのための技術」(『大辞林』第二版)とある。一般に、山に入ることは「異常な事態」ではない。むしろ我々は日常生活の延長として山に入っている。結果的に異常な事態(遭難・病気・怪我など)に陥ることはあっても。
 服部文祥は最低限の装備で山に分け入り、自らの力だけで魚や山菜といった食物を採取し、南アルプスや日高山脈を突き進んでいく。
 「衣食住のできるかぎりを山の恵みでまかなう登山を『サバイバル登山』と呼んでいる。」
 「生命体としてなまなましく生きたい。自分がこの世界に存在していることを感じたい。そのために僕は山登りを続けてきた。そして、ある方法に辿りついた。食料も装備もできるだけ持たずに道のない山を歩いてみるのだ。」
 このように語る服部の志向を決定づけたものはフリークライミングである。
 「あえて原始的であったり、難しかったりする方法を取ることで、その行為に占める自分の能力の割合を増やすことが、より深い経験につながっているということ(後略)」
 非常に分かりやすいが、反面、「独りよがりじゃないの……」とつぶやきたくもなる。
 この「独りよがり」という疑問は装備についてもつきまとった。南アルプスでは、テントや、電池で動くものは持っていかなかったが、日高山脈ではそうではなかった。日高山脈が、他と比較して特殊だったからか。
 「雨になすすべもなく、タープの下で身を縮めている自分が楽しかった。この森にいるすべてのケモノたちが同じように丸くなっているのだろうか。」と、南アルプスでは自分の「体験の深さ」ばかりでなく、他の生き物にまで思いを馳せているのだ。
 電気製品については、「(前略)電気製品は次元の違うものだ。電池の起電力がなくなったら、見た目がまったく変わらないのにゴミになる。そこに電気製品の貧しさがある。」と断じている。これは当たり前のことで、電気製品を否定する理由にはなっていないが、日高では持参することになる。
 「美しくないという理由でいつもは持ち歩かない時計(目覚まし・高度計付き)・ラジオ・ヘッドランプは重量以上の働きをすると思われたので、装備に加えた。」
 テントも、「ヤブ蚊に一晩中悩まされたり、目を覚ましたらヒグマが目の前でフーフー唸っていたということを避けるためにも、区切られた空間には重さ分の価値がある。」という理由で装備に付け加えている。
 その理由、納得できます。ただその直前にこう書かれてしまっては少し興ざめなのです。
 「食料や装備を持たないで山に入っても、そのこだわりが足かせになっていては、趣味の世界を抜け出せない。僕はサバイバルというスタイルが、山登りの武器になる瞬間を求めていた。そしてまさに、日高という大山塊を歩くためには、こだわりとしてではなく、美しい戦略としてサバイバル登山が必要だった。大山脈を長く快適に旅するために、装備を削減し、食料は現地で調達するのである。」
 この本には、サバイバル登山を志向するに至った動機と実践が前半に、後半は豪雪の黒部での格闘が描かれている。
 「冬期登攀は不合理な目的のために合理性を積み重ねていく不思議な行動である。」冬の黒部をぬけ出してきた服部はこう語る。
 サバイバル登山と冬期登攀。しかし、両者がわき出る源は同じだ。死に向き合ってしまうことによる生への渇望であろう。
 「生き延びる自分を経験すること。ここに僕の登山のオリジナルがある。(中略)自然には意思も過ちもなく、純粋な危険があるだけだ。その危険に身を晒す行為に、情緒と感傷をすすぐる甘い香りが漂っている。」
 理解できるが、実践したくはないところだ。
 私たちの生活が日常と非日常に分断されて存在していないのと同様に、山でもそのように二分された登山が存在するわけではない。それでも日常と非日常は明らかに存在する。私たちはそのどちらで生きるかは別として、それぞれが自分に納得できるやり方で生活したり、山に向き合ったりしているにすぎないのではないか。
 登山スタイルも生活スタイルも、所詮独りよがりからは抜け出せないのかもしれない。
 最後に「日高のあとの話、もしくはちょっと長いあとがき」に書かれていた次の言葉は、文化論としても生活論としても心に残った。少し長いが引用する。
 「人間(というか生き物)はそんなにか弱くない。当たり前の規準だと思いこんでいたラインは『かなり快適』に生きるラインであって、ただ生きるラインはもっとちがうところに引かれている。山登りのおかげで生活のうえでのラインが上がったのか下がったのかはわからない。山で原始的な生活を経験したところで、日ごろの衣食住が山レベルに下がったとうことはないからだ。そういう意味では、僕はどんなに頑張っても山にとってのゲストにほかならない。さらにもう一歩引いてみると、都市型生活する人々は地球環境にとってどこまでもゲストである。自分がこの星のお客さんだと知るのは悲しいことだ。」
(06.8.21)



『山がくれたガンに負けない勇気』
小嶋修(山と溪谷社) 1,500円


 ずっと以前から気になっていた車いすでの登山。
 登らせてあげたいというボランティアの心意気は分かるような気がする。
 だが、自分が車いす使用者だったら……と考えるとどうか。
 山頂に立ちたいという願望があったとしよう。
 それを車いすごと、あるいは人の背に負われて登ることをよしとするだろうか。
 サポートを全否定するのではない。
 しかし、そこまでして登ることに自分がどれほどの意義を感じられるだろうか。
 そこで出口なしの迷路にはまり込んでしまう。

 ガン闘病者の登山という実践がある。
 これはより身近に感じられ、理解・納得できた。
 「ガンと前向きに戦う。生きがいや目標をもってガンと闘病する。こうした心の持ち方が、ガンの治療に大いにプラスになる。(中略)もとより登山することが新しいガン治療法だというわけではない。闘病における生きがいや目標は、登山以外にも多くある。だが、登山には人生の縮図のような面がある。」
 本の内容はプロローグに書かれているこの言葉に凝縮されているだろう。
 岡山県倉敷市の心療内科医伊丹仁朗が提唱するガン闘病者のための心理学団体「いきがい療法実践会」の発足を記念した富士登山が、1984年7月10名にガン闘病者によって行われた。
 1987年8月にはモン・ブラン登山が行われ、7名中3名が登頂に成功した。
 ガンの不安に押しつぶされないこと。そのために生きがいを持つこと。
 それがガンの治療にも役立つのだという。
 「生きがい」は何でもよいのだろう。それがたまたま「登山」であったこというだけだ。
 「“死”に向かって生きるのではなく“生”へ向かって生きる。そうすることで、いずれ訪れる死も、人生の素晴らしい別れとなるのだと思います。」という闘病者の妻のいう言葉は象徴的だ。
 モン・ブランに向かう直前になって亡くなった「戦友」の写真を山頂に持っていった闘病者の野村は
 「当初は、山頂に埋めてこようと思っていたんです。でも、頂上に立ったら気が変わりました。ここに埋めたら、それでおしまいになってしまうんじゃないかと……。大切に持ち帰ってきました。」
 これは「義足の登山家エベレストに挑む」(下段参照)にあるグレッグ・チャイルドが小石を持ち帰ったエピソードにも通じる言葉である。
 伊丹は言う。
 「また、たいていの日本人は、一生の間に一度は富士山に登りたいなあと思っている。でも、ガンになった人は、もう富士山なんか登れないと思うのが普通でしょう。しかし、このチャンスに富士山に登ろうという目標を持ったことで、人生にも張りが出てきたとういうかたも多いんです。」
 私の登山も富士山から始まったのでよく分かる。
 違うのは、私の場合、元気なときは富士山になんか登りたいとは思わなかったことだ。
 もうひとつ、「エピローグ」で明らかにされる事実がある。
 読んでのお楽しみということにするが、このことも納得できる理由のひとつであった。
(02.10.1)



義足の登山家エベレストに挑む
2002.1.25 NHK教育TV放映


 これはアメリカのドキュメンタリーの映画である。義足の登山家トム・ウィッテカー(50才)が、過去2回の失敗を経てエベレスト登頂を成し遂げるまでの過程を記録している。
 32才の時交通事故で右足首から先を切断し義足となったトムは、それでも登山への情熱を持ち続け、ロッククライミングを含めた活動を続ける。健常者でも難しい岩登りを義足でこなすには尋常の体力や集中力では困難であろう。いや、山登り自体がそのような困難を要求されるものであり、ましてやエベレスト登頂となればプラス経済力・幸運に恵まれなければとても不可能である。前2回の挫折も起こりうべくして起こったものである。
 トム自身も言っている、「義足の自分が使う体力は通常の場合の3割増である」と。3割どころではあるまい。経済力や幸運に恵まれる度合いも、健常者と比較すれば格段のハンディーがある。
 1995年トムと共に山頂を目指した登山家であり作家であるグレッグ・チャイルドは、トムが体力の限界で登頂を断念した後、自ら山頂に達しトムに小石を持ち帰る。トムはその小石を山頂に戻すべく、1998年3度目のアタックをする。
 トムは高山病にかかり、いったんはベースキャンプまで戻ったが、天候の回復を待ってついに登頂に成功し、グレックが持ち帰った山頂の小石を元の場所に戻すことができたのである。
 登頂前、トムは風邪気であった。そのトムが言う、「ここは病人の来るところじゃない」。では、障害者の来るべきところか? また、トムは言う、「私たちは楽にできたことを評価しない。人が成長したり進歩したりするのは困難に打ち勝ったときだ」とも。登頂を断念しそうになったときにはこのように言った。「障害者なのだからしかたがないとは言いたくない」
 その全てに共感する訳ではないが、考えさせられる言葉ではある。
実はこのドュメンタリーの予告を見たとき、『ミニヤコンカ奇跡の生還』(山と渓谷社)を書いた松田広也氏のことかと思った。氏も凍傷による義足で、それでも丹沢の山々を歩き回っている。予測ははずれたが、困難への挑戦を挑発させられたドキュメンタリーであった。
(02.1.26)



山の郵便配達
神田岩波ホールにて9月中旬まで上映 1800円


「山の本」のとっぱなに映画のことを書くのも気が引けるのですが、ご勘弁を。
 「山の…」とくると気になってしまい出かけてみたのですが、初めて行ったときは満席でチケットが買えず、再度の挑戦でやっと入れました(それもチケット売り切れから10人目ぐらい)。
 1980年代の中国の山村が舞台。山々を越え村を巡って郵便物を配る郵便配達の父子が主人公。父は膝を痛め、青年である息子に仕事を譲る(この父親役を演じる俳優が、なかなか渋い味を出している。「中国版高倉健」といったところ)。今日は青年にとっては最初の配達、同行する父にとっては最後の配達となる。配達は2泊3日の行程。回想シーンも含めて親子・家族・男女の情愛や山里の人々とのふれ合い・仕事への使命感などが無理なく描き出される良い作品だ。
 ……しかし、と考えてしまう。ずっと以前、「『フーテン寅さん』が大衆の支持を受けるのは、現代社会に寅さんを取り巻くような人間関係が希薄なせいだ」というのを何かで読んだ記憶がある。この伝で言えば、市場経済化をひた走る中国社会では、こんな素朴な人間関係ももはや過去のものになりつつあるということかも知れない。さらにそんな作品が日本で受けているということは、日本の人々が中国社会をそのようなものとして思い描き、ノスタルジックな気分にひたれるからということになろうか。 そういえば、観客には私を含め中高年の人たちが多かった。みんながみんな「山の…」にひかれて足を運んだ中高年ハイカーというわけでもあるまい。
 作中、すぐ下をバスが走る登山道を歩いている場面。息子の「バスを利用すればいいのに……」というぼやきに対し、父が「当てにならないバスを待つより、歩いた方がよほど早い。」と確信を持って言う。林道歩きは好みではないが、妙に共感してしまった。山村風景は奥多摩の山々を思わせて身近に感じられ、ちょっと歩いてみたくもなった。
(2001.8.31)


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